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日時計主義と懺悔について                               

 ものごとのよい面のみを見る日時計主義と、懺悔。
 このことについて考え、また反省する機会がありました。
 生長の家高知教区の機関紙に書いた文章です。

虹

日時計主義と懺悔について

 皆さま、ありがとうございます。
 最近、総裁・谷口雅宣先生が平成3年、4年に『理想世界』誌に書かれた原稿を読み直し、日時計主義と懺悔について自分なりに考える機会がありました。よいところだけを見る日時計主義には懺悔なんて関係ないように思えたりもします。
 「日時計主義の生き方」は、谷口雅春先生が『生長の家』創刊号において提唱されました。それは、日時計が太陽の輝く時刻のみを刻むように、吾々も人生の中で良いことのみ、明るいことのみを心に刻もうという生き方のことです。
 そして、人生に起こったことは全てよいことだと解釈しようとも教えられています。病気になっても、そのおかげで教えにふれることができた、そのおかげで恨んでいる人を赦すことができた、だから全て起こったことはよきことであったのだと。
 その時、常に神様のみ心に返して考えていると同じ過ちを犯すことはないのですが、深く自分を振り返ることなく、自分は間違っていない、これで何もかもいいんだと慢心してしまうと、同じことを繰り返してしまいます。 何がかけていたのかというと、自分の現象の心を常に神様のみ心と照らし合わせて考えることです。神様のみ心と照らし合わせるからこそ、現象の自分の至らなさに気づき、懺悔もでてきます。懺悔の神示には次のように書かれています。

「吾が教えは、『罪』の無を説く。本来『罪』なければ、懺悔も不要なりと思うは過れり。『罪』は本来『暗』にして光にあうとき自滅すれども、包みて光に会わしめざるときは、暗はそのまま暗にして滅ぶるものには非ざるなり。(中略)世の人々よ、悪を包み隠すことなかれ。悪を包み隠すは、なお悪に執着せるがためなり。罪の暴露を恐るるはなおその罪に執着せるがためなり。『本来罪無し』の吾が教えを聴きて増上慢におちいることなかれ。本来罪なしの真理を知るものが、何ぞ罪の暴露を恐れてそれを蔽うことを敢てせんや。」

 何か問題が起こってくるということは、そこに当たり前でない何かがあるということです。その時に、しっかりとニセモノを否定する必要があります。ニセモノを否定しても、それはないものをなからしめたのであり、実相を否定したのではありません。ホンモノ(実相)が実在するという前提であり、それは自己否定でも自己卑下でもありません。
 この日時計主義と懺悔には共通しているところがあります。それは、肯定して認めているのは、実相であり、またその現れであるところの真象であり、否定しているのは現象の不完全さであるということです。
 谷口雅春先生は立教される前、三界は唯心の所現であるとわかっても、実際に家族が病気になっているときには心配せずにはいられない、つまり人生は心で創られるとわかりながら、その心が支配できないと悩んでおられました。その時に、“物質はない、肉体はない、実相がある”という啓示が天降り、お悟りを開かれました。それは、現象の偽我の否定であり、実相の真我の肯定でした。
 聖経の中には「実相」と書いて「そのまま」とふりがながうたれているところがあります。そのままで神の子であるという時のそのままとは実相のことです。現象の不完全なこのままで神の子であるということではありません。
 生長の家の体験談で、よく練成会に参加して、今までの自分の生き方を反省し、家に帰って手をついて家族に謝るという体験が出てきます。これが偽我の否定であり、真我の肯定です。自分は正しい、このままでよいと思い上がるのではなく、ニセモノの自分を否定し、常に神様のみ心と照らし合わせ、真我を肯定し、神様の御心を表現する生活をともに実践して参りましょう。


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