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被災地からのメッセージに、こちらが力をいただく

 9月4日に大槌町に震災ボランティアに行く途中、釜石駅に寄った。
 釜石駅の駅前の信号はまだ復旧していなかった。
 埼玉県警のおまわりさんが、行くときも、帰る時も交通整理をされていた。
 一日中の切れ目のないお仕事は大変だろうなあと思わず合掌したくなった。

 また、釜石駅に掲示されていたポスターにくぎ付けになった。
 同じポスターが、帰るときに寄った遠野市の道の駅に掲示されていた。

 被災地の方々の写真とともに、メッセージが掲載されている。

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 他にも、

 ○心まで壊されてたまるか。

 ○かわりに気づいた宝もの。

 ○続く未来に胸張れるよう。

 ○ため息つかないと決めた。

 などの心に響く言葉が書かれていた。

 そして、そのポスターのわきにはこんな言葉が

「一緒に悲しむことよりも、あなたの仕事を一生懸命やってほしい。
 それが沿岸を、岩手を元気にする力になると思うから。」

 こちらが大きな力と勇気をいただいたボランティアだった。
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大槌町に震災ボランティアに行って感じたこと

 9月4日の日曜日、教化部職員と青年会員とぼくを含めて合計7名で、岩手県大槌町に震災ボランティアに行った。
 今回、大槌町にしたのは台風12号が来たことによる。
 当初は、どこに行くか色々悩んだ末、東京から離れ行きにくい宮古に行くことにしていた。
 しかし、“台風が来ているため宮古でのボランティアは中止にします”と連絡が入った。
 陸前高田に行こうかと考えたが、陸前高田も台風で中止になっていた。
 大槌町は、9月4日ボランティアを受け入れていることをネットで知り申し込んだ。

 これでボランティアに行くのは3回目。前2回は岩手県北部の野田村に行った。
 今回は岩手県南部の大槌町。朝4時に教化部を出発し、現地に着いたのが8時半過ぎだった。9時半の集合時間まで少し時間があったので、被災地に車を走らせた。町の市街地のほとんどが津波にのまれてしまっていて、ほとんどの建物が跡形もなくなくなっていた。その中で大きな建物だけが残っている。言葉にならない光景だった。

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 ボランティアには大型バスが3台来ており、その他にも自家用車で来られていて合計200名近い人がきていたのではないかと思う。
 与えらた作業はがれき撤去だった。
 津波で流されて、家の基礎だけ残っているところの泥やがれきを撤去するというもの。泥だけではなく、瓦や食器、ビン等さまざまなものが埋まっているのでなかなかスコップが入らない。出てくるものを見ながら、それぞれに家庭があり、普通の生活が行われていたものが一瞬にして崩壊してしまったことを感じた。

 実質の作業は10時から14時半までだった。午後からはクワが手に入ったため、作業が倍以上の速さで進んだ。貸し出している道具の多くはスコップでクワは少なかった。この作業はクワがあるだけで作業効率が格段に違うので、ボランティアセンターの方にそのことを伝えた。

 このボランティアに和歌山から来ているおじさんがいた。軽トラの荷台にコンテナのような大きな箱?を付けてそこで寝泊まりしているそうだ。そのコンテナにはミカンと梅の絵とともに“From WAKAYAMA”と書かれていた。同郷であったので、すぐに親しくなった。和歌山弁がなんとも懐かしかった。このおじさん、仕事を定年退職して、ゴルフしたり、飲みに行ったりするわけでもなく、お金はほとんど使うことがないので、この震災ボランティアに来て、どうせなら他の人のために使おうと考えたそうだ。車を改良し、そこで寝泊まりできるようにし、色々な装備を備え、9月からお正月までボランティアをするそうだ。スタッドレスタイヤまで用意していた。ほんとうはもっと早く来たかったそうだが、自治会の仕事を途中で投げ出すわけにもいかず、夏祭りが終わってからこられたそうだ。奥さんは“お正月も帰ってこなくても大丈夫”と言われたそうで、夫婦でこの震災復興に取り組んでおられた。
 お昼にこちらのお弁当のおかずを差し入れすると、なんとあたたいコーヒーを7名全員に入れてくださった。
 このような方々の力が、愛が被災地に集まってきているのだなあと感動した。
 おじさんには帰り際に『いのちの環』を手渡すことができた。ちょうど、震災復興に関することだったのでぴったりだった。

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 そして、もう一人話したのは、広島から会社の休みをもらって一人で来ていた青年の方だった。ボランティアに行こう行こうと思っていて休みがとれたので1週間の予定で来られたそうだ。当初は釜石のボランティアに行く予定だったが、釜石も台風のため中止に。そこで、休むのももったいない、行動しようと思い、釜石から3千円かけてタクシーに乗ってかけつけられた。この日が初日だったそうだ。生長の家の話をすると、呉に住んでいて、生長の家の呉道場のことも知っていた。大槌から釜石までバスで帰るというので、我々も釜石を通るため車に乗ってもらった。帰り際に『日時計24』をお渡しした。

 他にも大型バスで長野県から来られていたり、運送会社の方が岐阜から、ご夫婦で来られている方もいた。
 全国の皆さんの愛念が今、被災地に集まってきているのをひしひしと感じた。
 また実際に被災地に来ることができなくても、祈り、支援してくださっている多くの方々がいる。
 その多くの皆さんの善意が、愛が、これからの復興を成し遂げていく大きな力なのだと実感した。

 県外からのボランティアの受付を終了した市町村もあるが、大槌町はまだまだこれから多くの人の手を必要とするところだと思う。我々200人足らずで一日でできた範囲はとても限られている。がれき撤去が手つかずの地域もまだ多かった。
 継続して行っていく必要性を感じた。

再び岩手県野田村に災害ボランティアで行く

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 昨日、岩手県野田村へ災害ボランティアに行った。
 野田村に行くのは、6月9日に続いて2回目。
 今回は、青年会のK委員長と、Tさんと一緒に行った。
 Tさんの家に寄っていくため、前回のルートとは違い、弘前から高速に乗って行った。
 朝5時半に出て、野田村に着いたのは9時過ぎだった。

 今回は午後から雨の予報のため、前回と同じ体育館での物資の仕分けを予想していたのだが、与えられた任務は、津波の被害にあった田んぼのがれきの撤去だった。よしっと気合いを入れて現地に向かった。
 津波に襲われ、田んぼは泥がかぶったまま、その田んぼの表面を10センチほど掘り起こし、がれきを撤去するという仕事。クワがあれば作業はやりやすかったのだが、クワがなくスコップで行ったため中々の力仕事だった。泥の下からは瓦やガラス、食器、写真、ゲーム等色々なものが出てくる。どれも貴重なものであったのであろう。
 お昼前に雨が降り始め、結局この作業は午前中で中断することに。
 この田んぼの持ち主は70歳後半のように見えるおじいさん。途中で缶コーヒーを差し入れてくれ、とても丁寧に説明し、声をかけて下さった。3人でやれば一日で半分の面積はできるのではないかと思っていたので残念。力仕事なので、おじいさんが一人でするのは大変だろう。明日からのボランティアの人につなぎたい。
 おじいさんとももっと色々とお話をしたかった。

 お昼には役場の前で炊き出しが行われており、行列ができていた。

 午後からは前回と同じ物資の仕分け。仕分けと言っても届いた物資を仕分けするのではなく、被災された町民の皆さんからの要望に従って、体育館に並んでいる支援物資から要望の品を集め、段ボール箱に入れると言う仕事。前回の時にはなかった扇風機なども集まってきていた。お米も前回よりも多くなったいるようだった。
 被災地への支援が続いていることを思うととても嬉しくなった。

 この日は我々を含め21人の方がボランティアに来られていたそうだ。
 続いて届く支援物資、ボランティアの皆さんに感動した。
 愛がどんどん集まってきていると感じた。

 まだまだ津波にのみ込まれた地域はそのままに近い状況であったが、復興への槌音が響いていた。
 一歩一歩前進を続けているようだった。
 継続してできることを行っていこう。

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岩手県野田村に災害ボランティア活動に行く

 昨日、職場である生長の家青森県教化部の職員と青森の生長の家青年会の有志6名で、岩手県野田村に震災ボランティアに行った。
 数ある被災地の中から野田村に決めた理由は、青森市内から日帰りが出来るということと、野田村の震災ボランティアの活動についてブログが書かれていたからだ。
 野田村は岩手県の東北に位置し、久慈市の南に隣接している、人口約5千の村だ。
 津波の被害にあい、村の中で28名が亡くなられ、全壊家屋が308棟、半壊家屋が33棟あった。

 4名が朝5時に車で教化部を出発し、7時に八戸で2名と合流して、出発から3時間45分後の8時45分に野田村に着いた。役場は海から少し離れているが、海から役場までの建物は全て津波で流され、何もない状態となっていた。

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 ボランティアの人は9時に受付をすませて、そしてそれぞれの作業場所に移動し、15時まで作業を行うことになっている。
 吾々男性4名と、女性2名はやる気満々で、がれき撤去や家屋内外の片付け、どんな重労働もいとわずやろうと準備していった。
 そして、与えられた任務は、体育館にある支援物資を被災者の希望に沿って段ボール箱にまとめる仕事だった。
 重労働ではなかったが、やりがいの大きい仕事だった。
 作業場所である役場に隣接する体育館には、全国から多くの支援物資が届けられていた。
 野田村は全国的に有名な村ではないと思うのだが、全国各地から多くの物資が届いていて驚いた。
 その物資は分類され、体育館一杯に並べれていた。これだけの物資をここまで整理し並べるのは大変なことであっただろうなあと思った。

 吾々の任務は、被災者が希望している支援物資を体育館内から集め、団バール箱につめると言う作業だった。
 役場に来られた被災者の方々が、役場が作った支援物資が書かれたA4裏表・1枚の紙に書かれた支援物資一覧の中から必要なものにチェックを入れ、必要な個数を書く。そして、それを吾々ボランティアが集め、団ボール箱につめる。翌日、役場に受け取りに来た被災者に引き渡されるという流れになっている。A4の支援物資が書かれた紙は毎日更新されているそうだ。必要なものが日々変わってくるし、用意できるものも変わってくるからだそうだ。洋服などはご本人が自由に選べるようにされているそうだ。役場の方、ボランティアの方々の行き届いた活動に感動した。

 一組3人ほどのチームに分かれ、カゴを持って集めて回る。ぼくと青年会のY君は、毎日ボランティアに来られている女性の方と一緒になり、その方がほとんどの物資の在処を知っておられたので、スムーズに集めることができた。A4の紙には被災者の方の家族全員のお名前と年齢が書かれているため、物資を選ぶときに、その方を思い浮かべながら、男女の別や、年配の方ならこういう湯呑みがいいだろう、若い方ならこちらのサンダルの方がいいだろうと考えて集めさせていただいた。この日も普段の日のように五十数件の申し込みがあったが、2時半頃には無事集め終え、最後の30分で物資の整理をすることができた。

 一緒にボランティアを行っていた方の中に、車で1時間半かかって来られた主婦の方がおられた。何か出来ないかと思っていたときに、野田村が村外からの個人のボランティアも受付始めたと言うことを知り来られたそうだ。細く長い支援を志され、今は週に2回、子供を保育所に預けここに来られているそうだ。
 その方とは環境保全のことで少し話すことができた。真剣に考えておられる方だった。
 帰る際に『いのちの環』と『白鳩』をお渡しすると、快く受けとってくださった。

 まだ避難している方もおられ、役場の前ではお昼には炊き出しが行われていた。役場に直接来ることが出来ない方もおられることと思う。支援物資も沢山あるといっても、これから夏に向け新たに必要になるものもあるだろうし、なくなっているものもあるだろう。
 息の長い支援を考えていく必要を実感した。

 津波で全て流された景色にはコトバを失ったが、多くの支援物資を目の当たりにし、役場の職員や多くのボランティアの方々の姿に人々の善意と愛を強く感じたボランティア活動だった。

 

青森から岩手に支援物資を送る

 昨日、青森教区から岩手教区に支援物資を送らせていただいた。
 岩手教区は青森のお隣の教区であり、青森よりも大きな被害を受けた。
 具体的に何かできないかと思い、13日の水曜日に岩手県教化部に問い合わせてみると、現在、教化部から片道2時間以上かけて被災地に会員の皆様の安否確認と支援物資を持っていっており、お米、カップ麺等の非常食、歯磨きセット、下着の上下のセットが必要とのことであった。
 早速、各組織を通して支援物資の提供を呼びかけた。
 すると、3日間でお米370㎏、カップ麺約250個、歯磨きセット約250セット、下着約50セット集まり、段ボール箱37個に入れ、昨日送らせていただいた。皆さんも何かしたくてうずうずしていたようだ。

 被災地の皆様に物資が届き、生活の足しになり、希望が届きますように。

 また、お持ちいただいた青森教区の皆様ありがとうございました。

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